詩人とは表現するべき個性を持たず、
特定の表現手段を持つ人で、
それは個性ではなく手段であり、
その中で印象や経験が
特殊な予期せぬ状態で結合する。
by.トマス・スターンズ・エリオット.1888.9.26生
[英/詩人・ノーベル文学賞]
(画像:Wikipediaより)

 

個性」というのは、

日本と西洋では、少しイメージが違うようです。

 

日本の場合、

「他人との違い」であり「他人の中の自分」が強く、

西洋の場合、

自分が主体であり「私は私、あなたはあなた」というイメージです。

 

自立という観点で、

西洋人の方が自立するのが早く感じるのは、

家庭、学校の教育の違いなのでしょうか?

 

それはともかく、

日本人の「個性」ということを考えた時、

(辞書的な個人の特性とかではなく)

それが「個性」なのかどうか・・・

ということを考えてみようと思います。

 

 

「個性」については最近、

「自分らしさ」と言われることも多々ありますが、

では「自分らしさ」とは何なのでしょう?

 

「やりたいことをやる」ことが自分らしさ?

「誰にも束縛されない」ことが自分らしさ?

 

別にそれも間違いではないと思います。

どんな服装を着ようが、どんなものを食べようが、

どんなシゴトをしようが、

それが「自分らしさ」なら「個性」なのかもしれません。

 

しかし、

結局はそれに付随する服や食べ物、シゴトが

大衆が手に入れやすいあり触れたモノであり

それを「選択」という行為だけで

「自分らしさ」というのは、

まだまだ表面的なことであるように思えます。

 

名言の「詩人の表現は手段である」ということを

私たちの生活の中で考えると、

表現の方法が全て「手段」であるならば、

何を着る、何を食べる、どのシゴトをする・・・は、

表現の手段であって「個性」ではないのでは・・・。

 

ただ、「やりたいことをやる」は、

既にある「選択肢の中からの選択」である可能性が高く、

それが「自分らしさ」の表現であるかもしれませんが、

「個性」からはほど遠いと感じます。

 

確かに束縛を感じたり、嫌なシゴト・環境にいる場合、

「自分のやりたいことをやる」という選択は

「自分らしさ」を表現することで間違いありません。

 

「自分らしさ」を、

「自分の欲望のままに」としている団体やカウンセラーもいるようですが、

「欲望」を出すことが「自分らしさ」ではなく、

その「欲望」をどのように満たすか、

その満たすまでのプロセスを自分なりに考え、

その知恵やアイデアが「自分らしい」のです。

 

「欲望」を満たすことだけが「自分らしさ」というのは

ある意味浅さかな考えであり、

その「欲望」を満たすまでの行動を

これまでの経験や知識、知恵などで総合的に行ない、

その行程をも楽しめることが「自分らしさ」なのでしょう。

 

その結果得られる新たな経験や達成により

得ることができた知識、見識も「自分らしさ」になります。

 

これまでの経験はその人だけの経験であり、

身に付けた知識や知恵はその人だけの知恵であるので、

それをどのように考え、どのように活かすか・・・。

 

ただの選択ではなく、そこに自分なりの味を与えることが

「自分らしさ」であれば、

自分の経験値や知識、見識が増えれば増えるほど

「自分らしさ」が強化されていくと思うのです。

 

その中から奇抜な発想や、独特な行動が生じて始めると、

それが「個性」となるのかもしれません。

 

大きな括りで「個人そのものが個性である」としてもいいのですが、

それでは「周りの人と変わらない」という人間観と変わりません。

 

「個性」とは、

経験値や知識、見識から生じる全ての能力を持ち合わせた

有機体が「個性」なのではないかと考えます。

 

「個性」を出すためには、

既にあるものを「選択」するだけではなく、

自らの持ち合わせる全ての能力を理解し、

それを必要に応じて活用していくことができる

能力が必要ではないかと思うのです。

 

その能力が

パーソナル・ケイパビリティ」です。

※これについての記事はコチラ

 

 

 

ご購読頂き、ありがとうございます。

 

 

先頭へもどる

 

careerdesgine ご意見、ご質問などございましたら、お気軽にお問い合わせください。

お問い合わせフォーム

自己価値を向上させる「価値矯正プログラム」にてサポートしております